「同性愛」はいつ生まれたか

セクシュアルマイノリティを傷つけたくないと考えていても、実際に「何が偏見なのか自分はわかっていないかもしれない」と考える方もいらっしゃるかと思います。
自分に傷つける意図がなくても、相手を傷つけてしまっていることもあります。

ここから抜け出すためには、
「何を知っていれば他者を傷つけないで済むのだろうか?」ということを知ることです。
セクシュアルマイノリティと一言で言ってもさまざまな人がいますし、それぞれの人が抱える苦しみや、痛みの形もさまざまです。
そのためにも、まずはセクシュアルマイノリティについて「知っていれば他者を傷つけずに済む」こともありますので、まずは知識を深めていきましょう。

今回は、「同性愛」はいつ生まれたかについて、歴史を遡ってお伝えしていきます。

まず最初は19世紀後半に性科学が提出した同性愛という用語、及び同性間性行為の医療化(治療によって対処すべき病気や障害とみなすこと)の主張から始まります。
同性愛という用語はドイツ刑法175条(男性同性愛を禁止する規定)に反対の立場だった、ハンガリー人医師カーロイ・マリア・ベンケルトが考案したものです。ベンケルトは、他人に危害を加えず、他人の権利を侵害しないゆえ処罰されるべきでない現象であることを示すため、同性間性行為や親密な関係性を同性愛という新しい用語で呼びました。

同性愛という概念の創出とそれに伴う同性間性行為の医療化の主張は、男性間性行為や男性同士の親密な関係性を望み・実行する性質を持つ人としての男性同性愛者像を生み出します。
「男性には女性を性愛の対象とする多数派と、男性を聖愛の対象とする少数派がいる」というように、性行為そのものの内容ではなく、それを行う人物の類型に還元される形で同性間の性行為や親密な関係性が語られるようになりました。

次に「オスカー・ワイルド裁判」と呼ばれる三度の公判の経緯を追いかけることで、どこから人物類型としての同性愛(者)という考え方がやってきたのかを知ることができます。
イギリスで1895年に、劇作家オスカー・ワイルドがクインズベリーという侯爵を名誉毀損で訴えました。
侯爵は息子のダグラスとワイルドの間の「親密な」関係を止めさせるため、ワイルドに手紙を送ったのですが、この手紙が名誉毀損に当たるとワイルドは考えたのです。しかし、侯爵の弁護士がワイルドは上流階級の退廃的な文化を体現しているとの印象操作を巧妙に行い、ワイルドは告訴を取り下げることになりました。

ここで重要なのは、ワイルドが実際に少年買春を行ったことそのものは最初の裁判では立証されておらず、「そういうことをしそうな人」という印象が法廷に存在したに過ぎなかったということです。

続くに2度目の裁判は、同性間の性行為を起訴事実とする刑事裁判として争われました。今度は、ワイルドの上流階級的=退廃的暮らしが「根拠」となって、同性間の性行為もあったに違いないという「結論」が導き出され、ワイルドは「有罪」になります。ここまでの裁判では、一貫して同性間の性行為は性的指向によるものではなく、上流階級の「火遊び」として少年買春として位置付けられていました。

しかし、「ワイルド裁判」の結果を知った性科学者たちは、当初想定していた少年買春とは異なる、まさに同性間の性行為やそれを行う人物類型に(意図してではなく結果的に)照準を合わせていることに気がつきます。
どのような行為であろうと同性間の「親密な」関係が犯罪となってしまいかねないことに対し、性科学者たちは自らの科学的知識を持って歯止めをかけようと動き出しました。

性科学者たちの主張には、同性間の性行為を論理的に悪き行為の問題ではなく「愛」の問題と考えるべきだという視点が存在しました。性科学者たちは「道徳の枠組みから男同士の関係を救い出すべく愛という位相においてそれを捉え直そうとし、同性間の性行為はもう一つの愛の行為なのであり、ふしだらなものではない」と主張しました。

そして、当時の生化学が導き出した結論が、同性と親密な関係性を持ち、あるいは持ちたいと望む人物類型としての「同性愛(者)」という概念でした。

同性間の性行為は、上流階級の退廃性とそれを体現するオスカー・ワイルドという一人の人物を巡る裁判を経由することによって、単なる行為から人格をめぐる問題へと移行しました。現代の私たちが知る「同性愛(者)」という概念の始まりはここにあるのです。

ただし、当時の性科学において同性愛は一種の病理と考えられており、いわば「人に迷惑はかけないが劣った性質ではあるので、場合によっては刑罰ではなく治療の対象とすべき」ものだったことに注意が必要です。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。